◆松山城マップ◆

天守閣と小天守閣
(重要文化財)

天守閣は三十三層地下1階の建築です。日本の天守閣で最も後期に再建されたもので、この建築技工は使用されている材料とも超一流の建築物。小天守閣は、大手(追手)方面を防御し、からめ手方向を防御し、二ノ丸・三ノ丸方面を監視することのできる位置にあります。城内の諸櫓の中で、天守閣についで重要な櫓なのでこの名がついています。小天守閣に大棟には両端に瓦の鯱が置かれ、城郭建築の威厳をしめしています。
乾門同東続櫓

櫓は慶長年間正木城から移築されたといわれ、重要な構えです。
一ノ門、同南櫓
(重要文化財)

一ノ門は高麗門であり、本壇入口の門で、本壇に通じる重要なところのため木割りも大きく豪華な構えとなっています。この門を入ると、一ノ門南櫓・一ノ門東塀・二ノ門・二ノ門南櫓・三ノ門南櫓などによって枡形という正方形にしきられています。
乾櫓
(重要文化財)
乾炉は二重の隅櫓で、本丸の西北隅、乾の隅に建っています。北郭に通じる乾一ノ門、乾門、同東続櫓とともにからめ手を防御する重要な構えです。正木城から移築されたと伝えられています。
紫竹門
(重要文化財)
本壇に接して紫竹門および続塀があります。この門と続塀によって本丸の大手とからめ手を大きく仕切ったところで、からめ手を堅める重要な構えです。

野原櫓
(重要文化財)

野原櫓は乾櫓と本丸西北を防御するとともに、その東にあった小筒櫓(跡)と本丸の北側を防御する重要な櫓です。
天神櫓

天神櫓のある本壇、東北の端は鬼門にあたるところから、城の安泰をいのるため天神(菅原道真)を祭ったのでこの名があります。本壇において戦略的意味のない珍しい櫓です。
太鼓門

太鼓門・同続櫓・太鼓櫓・は1つの防御単位を構築し、高さ6.9メートルの石段の上に一直線に建てられ、筒井門からさらに進入してくる敵に対し厳しい構えをみせています。また石垣の西端には太鼓櫓があり、太鼓門との間に24.41メートルの渡塀があって鉄砲狭間16箇所、石落3箇所が設けられていました。
戸無門

この門は建築様式から見ると、高麗門ですが、昔から戸がないので戸無門と呼ばれています。この門と筒井門、隠門とに仕切られた所は二ノ丸・三ノ丸から本丸へ、また東郭から通ずる本丸大手の正門の固めであって、城内最も重要で、堅固な場所です。
筒井門

築城の際、正木城にあったものを移築されたと伝えられています。本丸大手の正面の固めを構成する重要な門です。

太鼓櫓

太鼓門・同続櫓・太鼓櫓・は1つの防御単位を構築し、高さ6.9メートルの石段の上に一直線に建てられ、筒井門からさらに進入してくる敵に対し厳しい構えをみせています。また石垣の西端には太鼓櫓があり、太鼓門との間に24.41メートルの渡塀があって鉄砲狭間16箇所、石落3箇所が設けられていました。
井戸

南北を2つの峰を埋め立てて本丸の敷地を作った際、この地にあった泉を井戸として残したといい伝えられています。井戸の直径2メートル、深さ44.2メートルで城郭の飲料水として使用されていました。
隠門
(重要文化財)
井筒門が移築されてのち建築されたもので、戸無門から井筒門に迫る敵の側背を不意急襲する構えとなっています。この門と同続櫓は筒井門の脇門であり、規模が小さいけれども、木割大きく豪華な構えは築城当時の面影をみることができます。また外部下見板張りや、窓が格子窓で突揚げ板戸となっていることなど、古い城郭建築の様子を伝えています。


◆松山城の歴史◆


松山城の創始者は加藤嘉明です。嘉明は永禄6年(1563)年に三河国(愛知県)生まれ。父広明は徳川譜代の武士でしたが、嘉明が6歳の時に美濃国(岐阜県)で死去します。やがて羽柴秀吉に見出されてその家臣となり、20歳の時に七本槍の1人として武勲を立てました。その後従五位下左馬介に補せられ、伊予国正木6万石の城主に封じられ、また文禄(1592)・慶長(1597)の約には九鬼・脇板の武将とともに水軍を率いて活躍し、その功によって10万石に加増されます。
慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いにおいては、徳川家康側に従軍し、その戦功を認められて、20万石となりました。そこで嘉明は同7年に道後平野の中枢部にある勝山に城郭を築くため、普請奉行に足立重信を命じて、地割を行い工事に着手し、翌8年(1603)10月に嘉明は居を新城下に移し、初めて松山という名称が公になりました。この後も工事は継続され、24年後寛永4年(1627)にようやく完成しました。当時の天守閣は五層で偉観を誇りました。しかし嘉明は松山にあること25年、寛永4年(1627)に会津へ転封されました。
 そのあとへ蒲生氏郷の孫忠知が出羽国(山形県)上の山城から入国し、二ノ丸の造築を完成したが、寛永11年8月参勤交代の途中、在城7年目に京都で病没し、子供がないので断絶してしまいました。
 その後寛永12年(1635)7月伊勢国(三重県)桑名城主松平定行が松山藩主15万石に封じられて以来、14代世襲して明治維新に至りました。
 なお天守閣は寛永19年(1642)に三層に改築されましたが、天明4年(1784)元旦に落雷で焼失したので、文永3年(1820)から再建工事に着手し、35年の歳月を経て安政元年(1854)に復興しました。これが全外の天守閣です。
 その後、昭和に入り小天守閣やその他の櫓が放火や戦災などのため焼失しましたが、昭和41年から全国にも例を見ない総木造りによる復元が進められました。
 松山城は海抜132メートルの勝山山頂に本丸を置き、中腹に二ノ丸・山麓に三ノ丸(掘の内)を置く広大な規模を持つ、姫路城・和歌山城と並ぶ典型的な連立式平山城です。

◆築城の逸話◆
築城に際し、まず本丸の位置が決定され、石塁の完成に全力が集中されました。この時使用された石材は、付近の産地から産出したものも少なくありませんが、すでに廃城となっていた湯築城および、正木城から運搬されたものも多かったのです。この運搬の時の逸話。正木地域から魚類を行商する婦人をおたたと呼んでいました。このおたたが、嘉明の命を受け小砂を入れた桶を頭に載せて正木から松山へ持ち運びました。このために、その桶を御料櫃と呼ぶようになり、また嘉明の夫人が握り飯を配り人々の労をねぎらったといいます。
その後、工事が進み瓦を山上に運ぶ頃、工事が渋滞したため、足立重信は近郷の農民を動員して三方から人垣を作らせ、手ぐりわたしにして一夜の間にその全部を運ばせ、嘉明を驚かせたと伝えられています。

◆明治維新と松山城◆
松山藩は松平家の入部により、親藩大名となりました。したがって幕末においては幕府側として「禁門の変」や「長州征伐」に参加したため明治維新では朝敵として追討を打てることになります。当時松山藩内においては、朝廷に罪を謝すべしとする恭順論者と、薩長藩と徹底的に戦うべしとする主戦論者が対立したが、藩主松平定昭は恭順論を受け入れ、ここに松山藩は朝廷に対し、王命に敵対するつもりがないことを明らかにし、新政府側の土佐藩の兵を城下に居れ、藩主が常信寺において謹慎することとなった。これにより松山藩の誠意は新政府の認めるところとなり追討は免れる。このため松山城は戦火にさらされることなく、無事その姿をとどめました。その後、廃藩置県により松山城は兵部省の管轄となったが、城郭廃止の令により大蔵省の管轄となり、やがて大正12年、旧藩主久松氏により松山市に寄贈を受けました。

◆松山城の年表◆
西暦 城主名 禄高
(万石)
居城年(年数) 出来事
1603 加藤 嘉明 20 慶長8年(25) 慶長6f年築城許可。翌年着工し同8年正木城より移る。天守閣五層に。寛永4年会津40万石に転封。
1627 蒲生 忠知 24 寛永4年(7) 蒲生氏郷の孫、出羽上の山より移封。二ノ丸完成。寛永11年逝去。子どもがなく断絶。
1635 松平 定行 15 寛永12年(24)
1658 松平 定頼 15 万冶元年(5)
1662 松平 定長 15 寛文2年(13) 今治藩主松平定時の子、延宝2年就封。
1674 松平 定直 15 延宝2年(47)
1720 松平 定英 15 享保5年(14)
1733 松平 定喬 15 享保18年(31)
1763 松平 定静 15 明和2年(15)
1765 松平 定国 15 安永8年(26) 天明4年天守閣落雷で焼失。
1779 松平 定則 15 文化元年(6)
1804 松平 定通 15 文化6年(27) 文政3年天守閣再建工事にかかる
1809 松平 勝善 15 天保6年(22) 安政元年天守閣再建(現存)
1835 松平 勝成 15 安政3年(13)
1856 松平 定昭 15 慶応3年(1)
1867 松平 勝成 15 明治1年(2) 松平性を返上し、旧姓の久松となる
1868


版籍奉還明治3年三ノ丸全焼、同5年二ノ丸焼失。
1869


久松伯より城郭を寄贈され松山市の所有となる。
1923


小天守閣、南北隅櫓、多聞櫓、放火のため焼失。
1933


乾門など戦災のため焼失。
1945


馬具櫓を鉄筋で復興
1958


小天守閣、南北隅櫓、多聞櫓、十間廊下を木造で復興。
1968


筒井門を木造で復興。
1971


太鼓門を木造で復興。
1972


太鼓櫓を木造で復興。
1973


天神櫓を木造で復興。
1979


乾門同東続櫓を木造で復興。
1982


良門同東続櫓を木造で復興。
1986


巽魯を木造で復興。
1990


太鼓門西壁を復興。